第1回・第2回タビノコトバで採用された作家による旅の連載エッセイ企画。
「採用作家が継続してアウトプットできる場を作りたい」
「第3回の応募者に、採用されればこんなことが起こると未来を想像してほしい」
そんな思いを込めて、連載企画をスタートさせました。
・これまでのタビノコトバを読み、この人の作品をもっと読んでみたいと思っていた人。
・第3回があれば応募してみたいと思っていた人。
・旅の文章が好きな人。
旅の文章を応募し採用された作家による書き下ろし作品を公開します。
今回はRyuji Atsumiさんによるテーマ「男と女」:レモンハート75.5 第3話
(前回までの話)
<連載作家>
茂木麻予:「旅で出会った人たち」
RuCoco :「あの頃の私が見た風景」
ざっきー:「旅の回想」
Miki:「あちこち旅して考えた」
黒田朋花:「空想旅行記」
Ryuji Atsumi:「男と女」
連載作家の作品が掲載されたタビノコトバは、こちらから購入できます。
https://tabinokotoba.stores.jp/
瓶のかたち
いつの間にかジャズに変わっていた。
店主は皿を洗い、酒を作り、通し物を用意して、客と会話する合間にも、今の曲があとどれ位で終わるかは常に念頭にあって、次のレコードを選びセットして、間断なく針を継ぎ、埃を拭い、自分にだけわかる配列で棚に戻す。
この一連の動作は洗練されていた。
今流れているアルバムは、ぶら下げられたトランペットのところを見ればわかる。
ジャケットを載せられるようにフックが付いているのだった。
CARSTEN DAHL TRIO “BLUE TRAIN”
JBLのD130で聴かせられれば、大抵は掘り出し物と巡り会えた気分にさせられること請け合いだ。
この男もきっと、後日ネットでCDを取り寄せるのではあるまいか。
そして自分のパソコンの華奢なスピーカーで聴いてみれば、気のせいだったかと落胆して、そのままお蔵入りさせることだろう。
男は腕組みしたまま居並ぶボトルの形を眺めているようだった。
なで肩、怒り肩、寸胴型、スリムタワー型。
ほとんど一つの銘柄に一つのボトルデザインがあるようだった。
そして、ボトルの形は見ようによっては人の身体のようでもあると言えまいか。
以前、市民オーケストラに属する別の同僚が、何ともいけ好かない楽団仲間のホームパーティーに誘われて、仕方なしに今から行くのだと、手土産のワインを見せてきたことがあった。
産地によって瓶の形が異なるのだそうだ。
肩の張ったボルドー型、なだらかに下がったブルゴーニュ型、よりスマートで美しいのがこのドイツ産ワインのライン型。
そのいけ好かない楽団仲間氏は、ワインボトルの能書きをどう聞いたか。
お気に召したか癪に障ったか。
さて、この店にワインボトルは見当たらない。
「レモンハートをコーラで」
店主は何か考え事をするかのように復唱した。
その割り方はお勧めできないが、ジャズに聴き方はいらないのが持論なのだから、酒に飲み方がなくてもいいはずだ、という演繹的思考が挟まっているような口ぶりだった。
待つ間、男は手持ち無沙汰に携帯電話を開いてみたが、何のマークも入っていなかった。
レモンハート。
75.5度のこの酒を知ってはいたが、飲むのは初めてだった。
店主が見守る中一口飲んでみて、この感覚はあの印象に近いと思った。
最も上質なウイスキーを口に含み、喉で感じたその刹那、耳の奥に始まって頭皮から足の指先まで、熱風(ギブリ)のようなインパクトが伝わり繋がる。
こういう量感を伴った甘美な印象は、また、何かの心象に近しい気がしてならなかった。
それを暗い酒場の中で思い返そうとした。
愛してる
愛してる。
実は男はかつて、一度だけささやいたことがある。
別れた以前の恋人に対して。
男の方は、いつか別れなければならないと考えていながら、自分がどう生きて行くかの決断とともに留保を続け、年かさの女の方は、そこはかとない期待を抱きつつ、別れを早めてしまうことが怖くて何も言い出せずにいた。
こうして、いつまでも離れることのできなかった恋人と抱き合っているときだった。
あのとき女は応えた。
ほんの一瞬、心拍の一回分。
より一層、熱く潤ませながら。
か細い首に喉を浮き立たせ、それから、小さく消え入るような声で「はい」と。
万事控えめな女だった。
愛してる。
これは、全ての駒が出揃ったとき、または全てのパズルピースが組み合わさったと感じたとき。
あるいは、沸点の100度に達したとき、自ずと蒸気が吹き出るように、確かな思いが、不意に言葉という音節を借りて発せられるべきセリフのはずだ。
いずれにせよ、追憶はここに留めておくべきだろう。
春を待ってその人は再婚をする。
男は何かの癖のように携帯電話を開いた。
相変わらず何のマークもなかった。
コーラでさらに薄めてもらった後、ぐいぐいと飲みやった。
ラムもコーラもレモンも、溶け始めた氷の水も、すべてが自分勝手な主張をしてちぐはぐだった。
今の恋人の場合、この時間まで何の音沙汰もないのは珍しいことだった。
この男の場合、酒場では一杯で一倍速、二杯で二倍速、三倍で三倍速、時間の流れが早まる。
強い酒の場合、この計算式にどのような係数を掛け合わせるべきだろうか。
片肘を付いた手のひらで額をさする男が考えようとしているのは、そのことだけではないはずだ。
「けれどその人は、三月になったら、シンガポールに赴任してしまうんです」
店主は頷いた。
「日本の方ですか?」
男は頷いた。
「優秀な方なんですね」
こう言われて男は何かを言おうとして、何を言うのか忘れてしまったような顔をしていた。
立ったまま顎ヒゲをいじり、男を見遣る店主の左耳にはピアスがしてあって、鈍色の光を放つ。
トランペットはブリキ細工のようにくすんでいる。
もしも酔いが回っていなかったなら、出会って間もない頃の彼女のセリフを思い出していたことだろう。
「優秀なんかじゃありません。優秀な人は他にたくさんいます。私にはガッツしかないんです。けれど、ガッツがあれば成功できるって証明したいんです」
男は携帯電話を開くとメールを打ち始めた。
「大丈夫。安心しておやすみ。好きだから」
男は送信ボタンを押した。
(続く…)
【連載作家】
茂木麻予:「旅で出会った人たち」
RuCoco :「あの頃の私が見た風景」
ざっきー:「旅の回想」
Miki:「あちこち旅して考えた」
黒田朋花:「空想旅行記」
Ryuji Atsumi:「男と女」
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