第1回・第2回タビノコトバで採用された作家による旅の連載エッセイ企画。
「採用作家が継続してアウトプットできる場を作りたい」
「第3回の応募者に、採用されればこんなことが起こると未来を想像してほしい」
そんな思いを込めて、連載企画をスタートさせました。
・これまでのタビノコトバを読み、この人の作品をもっと読んでみたいと思っていた人。
・第3回があれば応募してみたいと思っていた人。
・旅の文章が好きな人。
旅の文章を応募し採用された作家による書き下ろし作品を公開します。
今回はRyuji Atsumiさんによるテーマ「男と女」:レモンハート75.5 第5話
(前回までの話)
<連載作家>
茂木麻予:「旅で出会った人たち」
RuCoco :「あの頃の私が見た風景」
ざっきー:「旅の回想」
Miki:「あちこち旅して考えた」
黒田朋花:「空想旅行記」
Ryuji Atsumi:「男と女」
連載作家の作品が掲載されたタビノコトバは、こちらから購入できます。
https://tabinokotoba.stores.jp/
(2) レモンハート75.5 第2話
(3) レモンハート75.5 第3話
(4) レモンハート75.5 第4話
(4) レモンハート75.5 第5話
3月の陽光
二人で来てハグするはずだった展望デッキを前にして、男は今、ひとりで恋人の離陸を待っていた。
男にとって、先ほどの唇の感触は意外だった。
筋肉質な初めての感触だったからだ。
きっと唇を求めて精一杯だったのだろう。
そう思うとおかしかった。
離陸時間の8時50分が近づいてきた。
ベンチから立ち上がると展望デッキへ出る。
3月の陽光は春を予感させるも、まだ冬の冷気を膨んだ風は、男を狙いすましたように、間断なく顔面に当たってきては爆裂を繰り返す。
せめてコートの襟を立て、手袋をはめて、鳩マークの尾翼を探した。
女が乗る飛行機は端の方にあった。
予定の1分前、8時49分に小さな力車に押されながら後進し始めた。
やがて男の目の前にその姿をさらし、右舷にSingapore Air Linesの綴りと、どんな歯列矯正よりもきれいにならんだ小窓をはっきりと見て取ることができた。
男は接触型警報装置がついているかも知れないフェンスに触れぬよう、気をつけながら一段上に立ち上がり、両手を振った。
誰にはばかる必要もなかった。
脇の方にホームで通勤電車でも待つような風体の中年男性が一人いるだけだったから。
右列シートのいずれかの小窓から自分を見ているかも知れない、そう思うと泣けてきた。
寒さを堪えるせいか、甲高い泣き声も喉を突いて出てきた。
涙は風に煽られ眼鏡に当たるも、車の撥水ウインドウに当たる雨滴のように、レンズの裏側を右から左へ吹き飛んで行った。
飛行機は左折すると、左舷を遠目ながらも見せてくれた。左列の小窓のいずれからか、自分を見ているかも知れない、そう思うと嗚咽を堪えずして両手を振り続けた。
飛行機は滑走路の方へ音もなく進み続けた。
3月の陽光は東京湾を煙らせ、飛行機は影になった。
男は双眼鏡へと駆け寄った。
100円で150秒。
双眼鏡の中では、きらめく東京湾を背景にして、立ち昇るかげろうでゆらめきながら動き続ける機体はもちろん、レタリングの一字一句と小窓のひとつひとつを、遠近法は無視して、音響も割愛して映写し続けた。
すかさず100円を追加。
予測した通り機体は建造物の陰に隠れる。
排ガスで薄汚れたANA本社ビルの左上の角に、スナイパーになった気分で照準を構え続けていると、唐突に仰角25度で機体が飛び出して見えたのが9時12分。
機影は上空でひるがえると銀色に眩しく輝いた。
100円玉の3枚目は追加しない。
大きく旋回する機影は、肉眼でいつまでも捉え続けることができた。
男はなおも手を振り続けながら、ひとこと発した。
白い空の薄く小さな点が見えているのか、見えていないのか判別がつかなくなったのが9時18分。
ユイはシンガポールへと旅立った。
(おわり)
(2) レモンハート75.5 第2話
(3) レモンハート75.5 第3話
(4) レモンハート75.5 第4話
(5) レモンハート75.5 第5話
【連載作家】
茂木麻予:「旅で出会った人たち」
RuCoco :「あの頃の私が見た風景」
ざっきー:「旅の回想」
Miki:「あちこち旅して考えた」
黒田朋花:「空想旅行記」
Ryuji Atsumi:「男と女」
コメントを残す